幕末維新の偉人
大村三十七士 文久三年(1863)
文久三年(1863)大村藩では若い勤王派の藩士たちが集まるようになりました。藩では藩士が勝手に仲間をつくることを禁じていたので、ひそかに彼らの家や、時には離れた山田の滝で会合を行いました。やがて仲間が増えて慶応二年(1866)の末頃には同盟者が三十七人となりました。この人達を[三十七士(さんじゅうしちし)]と呼んでいます。現在、大村護国神社の境内に、松林飯山を先頭に三十七士の石碑が建っています。
大村騒動 慶応三年(1867)
大村で大きな事件がおこりました。正月3日に城中で謡(うたい)初(はじ)めの行事があり、その帰り道に勤王派、盟主の家老の[針尾九左衛門]が自宅の門前で何者かに切られて重傷を負いました。
同じころ勤王派の中心人物[松林飯山]も家の近くの路上でおそわれて命を落としました。その後、犯人探しが行われ、やがて犯人が捕らえられました。三月に家老の家柄の二つの大村家の当主は責任をとらされて自害し、五月には二十数名が処刑されました。これが[大村騒動]と呼ばれる事件です。現在、上小路の事件現場には[松林飯山の遭難の碑]が建っています。
大村藩は、大村騒動の後、藩論を倒幕でまとめ、渡辺昇(わたなべのぼり)などが中心となり、倒幕運動を展開します。昇は坂本竜馬に頼まれ、桂小五郎に薩長同盟を説いたと言われています。
戊辰戦争 慶応四年(1868)~浜田謹吾少年~
京都の鳥羽伏見で、朝廷側の軍と幕府側の軍との戦いが始まります。この戦いは翌明治二年五月の函館五稜郭(ごりょうかく)の戦いまで続き、戊辰戦争といいます。
大村藩は、朝廷側の官軍の先頭になり、桑名城の受け取り、箱根の関所を奪い取りました。また、勝海舟と西郷隆盛の江戸城の無血開城会談には渡辺清が立ち会っています。
東北地方では、佐幕派の諸藩は奥羽越列藩同盟を結び官軍に対抗します。そんな中、東北で唯一の官軍派の秋田藩が窮地に陥ります。大村藩は、北伐軍を送ってこれを助け仙台・庄内藩の軍を退けました。このように、大村藩は倒幕から戊辰戦争まで、朝廷側に立ち大活躍をしました。明治二年、新政府は大村藩に三万石の「賞典」を賜りました。これは、薩摩藩・長州藩10万石、土佐藩4万石に次ぐものです。
北伐隊二番隊の鼓手(こしゅ)として戦いに参加した[浜田謹吾]少年がいました。九月十五日の刈和野の戦いは激戦で、大村兵に戦死者七名、負傷者三十二名を出し、謹吾少年もそのうちの一人でした。謹吾少年の太鼓の音に励まされて戦った人たち、そして角館の人たちは、謹吾少年の死を惜しみました。
謹吾少年の衣服の襟に縫いつけてあった「二葉より手くれ水くれ待つ花の君がみために咲けやこの時」という母の歌が見つけられ、この歌に心を強く打たれた角館の人たちは、感激の涙を流しました。そして謹吾少年について、その後も語り伝えられています。
昭和54年、大村市と旧角館町(現仙北市)は姉妹都市となりましたが、戊辰戦争の時のこうしたつながりによるものです。
浜田謹吾少年の像