>     >   大村藩玖島城下町

大村藩玖島城下町

大村藩玖島城下町

大村氏は、古代平安時代に藤原直澄が四国から移り住み大村氏を名乗ってから、中世の戦国時代、江戸時代から幕末、明治維新にいたるまで絶えることなく大村地方を治めてきた、非常にまれな大名です。
肥前大村藩二万七千石の城下町の風情を今もなお残す現在の大村市。
町のあちこちに今も残る武家屋敷跡や石垣をゆっくりと歩いて散策してみてはいかがでしょう。

※地図をクリックすると詳細へ飛びます。

玖島城跡 大村公園

玖島城は、初代大村藩主大村喜前が朝鮮出兵のときに立てこもった順天城の体験を活かし、三方を海に面した玖島の地に築かれました。現在でも海側にはお船蔵が残っており、海城としての特徴を残しています。
明治2年に廃城となり、現在は本丸に大村神社があり、城全体が大村公園になっています。

map_kouen

 



①玖島城本丸跡(大村神社)


②板敷櫓


③大村藩お船蔵跡(県指定史跡)


④旧梶山御殿


⑤竜神島


⑥桜田の堀


⑦二重(ふたえ)馬場

 

 

玖嶋 稲荷神社

玖嶋稲荷神社は、全国の稲荷神社の総本社、伏見稲荷大社より第16代大村領主純伊(すみこれ)公が、文明12年(1480年)、大村領の守護神として分霊を受けたことに始まります。この稲荷信仰は、歴代の領主にも受け継がれ領民にも広く信仰されるようになりました。18代領主純忠(すみただ)公が、キリスト教信仰に転じたことから領内の寺社共々焼き討ち等の弾圧を受けましたが、19代領主(初代藩主)喜前(よしあき)公により守護神として復活し、幕末に至るまで歴代の藩主は勿論のこと武家、農民、商人の間まで信仰の輪は広まっていきました。明治維新後、歴代藩主を祭神とする常磐神社が、廃城となった玖島城跡に県社大村神社として移築された折、稲荷神社も同境内の北端に社殿を建設(明治17年・1884年)玖島稲荷神社として新たな信仰が始まりました。

 

 

万歳山本経寺 大村藩主大村家墓所 (国指定史跡)

パンフレットはこちら
まず目を引くのがその墓塔の大きさです。3代藩主純信公の墓塔以降巨大化し、以後、歴代6~7mの巨大な墓塔が立ち並びます。また、藩主の墓塔だけ見ても、五輪塔、笠塔婆、石霊屋と色々な形式のものがあり、多種多様な墓塔が建ち並んでいます。特に巨大な石霊屋は他に類例が少なく、石造美術史としても貴重な墓塔です。
これら歴代藩主の巨大な墓碑は、キリスト教禁教後に厳格に仏教を信仰している証として建てられたと考えられており、キリシタン大名大村家の特異な歴史故のものと思われます。墓所がある本経寺自体も大村家がキリスト教を棄教し、仏教へと改宗する際に復興寺院第一号として建立されており、キリシタンから仏教へという江戸時代初期の宗教政策を物語るうえで貴重な資料となる墓所です。

 

 

五教館御成門 県指定史跡

大村藩の藩校として、江戸前期から明治に至る202年間にわたり藩内子弟の育成が行われました。ことに、維新前後には多くの偉人を出して有名になりました。
五教館とは「君臣義あり、父子親あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」の五倫の道を教える学校という意味です。
この五教館の御成門(黒門)は、歴代の藩主が来校される時に使用された門です。五教館に付属していた建物のなかで、唯一残されている遺構として昔の時代がしのばれます。

 

 

五小路

玖島城が築かれると、その周辺に新たな町が整備され、藩主の側近など家臣が移ってきました。こうして、玖島城下に武家屋敷街ができました。武家屋敷街は城を中心に5つの通りが作られ「五(ご)小路(こうじ)」と呼びました。
[本小路][上小路][小姓小路][草場小路][外浦小路]の五つです。

 

草場小路武家屋敷跡
五色塀

大村地方の特徴的な塀で、色とりどりの海石の石積みを漆喰で塗り固めたものです。
市内に何カ所か残っていますが、草場小路の五色塀が、塀の延長も長く、石の様々な色・形から最も見応えの
あるものとなっております。

 

旧楠本正隆屋敷 (県有形文化財)

パンフレットはこちら

楠本正隆は、天保9年(1838)城下の岩船に生まれ、藩主大村純熈(ひろ)の側近として仕え、幕末の倒幕運動においても、大村藩の三十七士の中心人物の一人として活躍しました。
その後、明治10年には東京府知事、23年衆議院議員、さらに26年には衆議院議長を歴任するなど、中央で活躍しました。明治29年に男爵に叙せられて代議士を辞任し、35年に65才で亡くなりました。
この屋敷は、正隆によって明治3年に建てられたもので、近世武家屋敷の形態を残し、ほぼ完全な形で残っており、いまは、県内でも稀(まれ)な文化財といえます。現在では、屋敷と庭園が修復され、一般に公開されています。