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江戸時代の大村

江戸時代の大村

五小路
玖島城が築かれると、その周辺に新たな町が整備され、藩主の側近など家臣が移ってきました。こうして、玖島城下に武家屋敷街ができました。武家屋敷街は城を中心に5つの通りが作られ「五(ご)小路(こうじ)」と呼びました。
[本小路][上小路][小姓小路][草場小路][外浦小路]の五つです。

大村城下町まち歩きガイドマップ

 

郡崩れ 明暦三年(1657) ~仏の谷・妻子別れの石・放虎原殉教地・首塚跡・胴塚跡~
江戸時代になり、徳川幕府はキリスト教の信仰を禁止し、キリシタンに厳しい弾圧を行いました。こうしてキリシタンはいなくなったと思われていましたが、キリスト教禁止令発布から40余年後の明暦三年(1657)大村地方に潜伏キリシタン発覚の大事件が起こりました。
「郡村(こおりむら)の矢次と言う所に、天草四朗の生まれ変わりという神童が現れてのう。その神童は萱瀬の岩穴(伝・仏の谷)に不思議な絵を隠し持って、実に奇妙な術を説くんじゃそうじゃ。」
この話を伝え聞いた長崎奉行は、ただちに大村藩に使いを出しました。
大村城内の騒ぎは相当なもので、大村藩では郡村を中心に萱瀬村や千綿村までにわたり探索し、キリシタン603人が芋づる式に捕らえられました。あまりに多いので、大村・長崎・佐賀・平戸・島原の5か所の牢に分けて入れられました。
それぞれ取り調べの上、打ち首406人・牢死78人・永牢20人、赦免99人という結果になりました。この事件を「郡崩れ」と呼んでいます。
郡崩れをきっかけに、藩内では厳重なキリシタン取り締りが行われました。

kirishitann_nihonngo.pdf

大村藩の教育(藩校)
[集義館 寛文十年(1670)→静寿園 元禄七年(1694)→五教館 寛政二年(1790) ]
集義館は寛文十年(1670)、四代藩主 大村純長(すみなが)によって藩士のための学校として玖島城内に建設されました。集義館は元禄七年(1694)に静(せい)寿(じゅ)園(えん)と名称を改めました。さらに、寛政二年(1790)藩主 大村純鎮(すみやす)は、その規模を大きくして、学問を学ぶ所を「五(ご)教館(こうかん)」、武術を学ぶ所を「治振(じしん)軒(けん)」と名付けました。五教館は武士以外の人々にも入学が許されました。
現在、大村小学校の一角には、藩主だけが通ることのできた[御成門(おなりもん)]が保存され、当時の面影をとどめています。

五教館 御成門

長崎街道
長崎街道とは、江戸時代、小倉から長崎まで[二十五宿五十七里]の道をいいます。小倉
から、黒崎、鳥栖、佐賀、武雄、嬉野、彼杵を通り、大村を経由して諫早から長崎まで続いていました。街道が整備されたのは、幕府が鎖国を行い長崎だけを海外との貿易港とした時期でした。長崎街道は海外から伝えられた情報や物をいち早く江戸へ届けるため、幕府にとって大変重要な道でした。
大村藩内の長崎街道は、彼杵から千(ち)綿(わた)宿を通り、右手に松が美しい鹿の島を見て、松原宿に入ります。松原宿には茶屋があり、大名などはここで、休憩していました。また、郡川は46個の飛び石で渡っていました。
郡川を渡ると、桜や松並木が美しい桜馬場に至ります。そして本経寺を経由して、水主町(かこまち)に入ると、大村宿の入口です。街道は武家屋敷街を避けて大きく東に迂回します。やがて国境の鈴田峠に至ります。このあたりは、現在でも街道の風情が残っています。